■「悟空」キャラクター設定の当初と変遷
我々は悟空のキャラクター設定図を大量に作った。人々は二次元のものに惹かれやすい。3Dのように本編から切り取りにくいものではなく、設定図の雰囲気は壮大で専門的で、人々を心から納得させることができる。その設定図を取り出し、少々ユニークな方法で制作の経緯について述べることにしよう。
■映画全編を通して悟空には三つのキャラクターイメージが設定されている──
大閙天宮の悟空は「伝説の孫悟空」
①映画の最初、悟空のイメージは抽象的で、脛まで凛々しく、人々の思い描く孫悟空、世に類なきスーパーヒーローの姿を代表させたものになっている。人が物語を語る際、そこまで細部を描写することはないであろう。せいぜい金箍と金の鎧と身にまとう赤いマントを述べるくらいで、鎧の長さやマントの材質などの細部は省略してしまうはずである。ここでの彼のイメージは単なる抽象的な「伝説の悟空」に過ぎない。
②映画の最後、変身した大聖のイメージは映画の最初と同じタイプで、変身前後のアクセントを意識した。大聖が本当に戻ってきたということで、そのイメージは非常にリアルでかっこよく、細部までこだわりぬかれている。思い描いていた通りのスーパーヒーローの真実の姿を目の前にして、人々は心を躍らせるのである。
③メインストーリーにおいて、悟空は一人の魅力的な中年男性であり、一人の失意に沈む落ちぶれたヒーローであり、渋味と人間味にあふれているが、その設定に対する観客の反応は「こんな格好悪い悟空は見たことがない」というものだった。その実、原作の悟空は更に不格好なので、これでも妥協を重ねてこの設定に辿り着いたのだ。原作では、悟空は身長130センチのサルである。しかし精神の面では金庸の小説に登場する令狐冲や喬峰のような大侠客と変わりない。そのため、外見をサルに似せるだけであったり、ドラマ版「西遊記」のように人間に近い綺麗な妖怪の姿でありながら、動き出したら耳をつまんだり頬を掻いたりするような設定を用いるだけでは足りない感じがする。そこで、我々は大胆なアイディアを打ち出した。悟空の外見はよりサルらしいものにしながらも、性格はより人間らしく、人情味があり、仏心があり、ミステリアスな部分もあるというようにし、またその姿は我々が子供の頃に見たような年若いものではなく、大人の姿に設定した。五百年間も封印されていた悟空が十代二十代の青年の様子をしているとは想像しがたいのだが、我々がこれまでに見てきた孫悟空は殆どがそのくらいの年齢にされている。不老不死とはいえ、人の外見は必ずその人の生きざまによって変わってくるもので、世の移り変わりを経験してきた人の顔には皺が付き物である。悟空の顔は長く、ほうれい線も刻まれており、その容貌には彼が経験してきた全てが表れているのである。
■八戒のキャラクター設定の経緯
これまでの「西遊記」作品では、八戒は基本的に性別が無く、時に女々しく、時にいやらしいスケベの設定となっているが、「大聖帰来」の八戒は純粋な心を持っており、臆病で食いしん坊であるという点では変わりがないかもしれないがスケベではなくなり、はっきりとした性別と立体的な性格を有している。
八戒は猪であり、原作でもそのように描写されている。そのため凶悪な形相と長い毛を持つ野性的な外見になっているが、可愛らしくもある。その可愛らしいところをできるだけ保とうとした結果、長いたてがみと胸毛だけを残すことになった。
八戒の性格は彼の生まれつきの個性と経験によって成り立っており、とても立体的である。天蓬元帥が下界に落とされたのが八戒であり、もともとの性格は臆病で軟弱、ホラを吹くのも好きで、実際何の能力も持っていないが、腐っても元神仙ということでプライドが高く、よく意地を張ったりしている。八戒は、実はほとんどの人間を代表しているのだ。本作で八戒は色々なものに変身している。例えば、一匹の猫。この猫はブリティッシュ・ショート・ヘアで、ぽっちゃりして可愛いところが八戒にぴったりだと思う。
■リュウアーのキャラクター作り
なぜリュウアーという子供のキャラを作ったのか:
リュウアーは実際に原作でも描かれている「九世の輪廻」を経験した子供である。揺るぎない決意のもと取経の旅をする彼は、小さい頃からある特質を備えていたに違いない。彼の人生観・世界観・価値観及びその成長は、本作で我々が最も表現したかったものである。
キャラクター設定で少々特別な点について、小坊主の彼は妖怪たちから逃げ延びる途中憧れのヒーローに出会い、長い逃亡を続ける。そこで我々は、小坊主の丸刈りの髪がだんだんと伸びていく様を表現してみた。このような細部こそが、アニメ映画の素晴らしいところではないだろうか。また、リュウアーのキャラクターを鮮明にするため、アフレコの際にも子供らしい天真爛漫さ、勇敢さ、そして純粋な心と力を表現できるようこだわった。
リュウアーのくどくどしたところは映画やドラマなどで描かれる三蔵法師のイメージを参照しており、これは「三蔵法師」の性格の基礎でもある。人々の思い描く三蔵法師という人物の性格はくどくどしいものであるに違いないが、くどくどしいにしても、人から嫌に思われない程度でなければならない。
■どのように「東洋のヒーロー」をつくったか?
東洋の侠義精神に見られる暴力的美学を表すために、以下のような射影歪みをアクションシーンでも使っている。
「大鬧天宮」の部分では、アクションをより誇張的で極端でメリハリのあるものにするため、大げさな遠近法を利用し、二次元漫画のように仕立て上げている。悟空が桃を投げるシーンなどは特にそうである。カメラ前に振りかぶってきた手は、突然巨大になったかのような感覚をもたらす。広角的に見える手は巨大すぎて3次元遠近法には適合しないが、人々のイメージ映像には合致しており、アクションをよりかっこよくヒーローらしく表現することができ、「伝説の孫悟空」という誇張的なストーリーを表すのにも向いている。このようなショットはディズニーやハリウッドなど西洋のアニメでは殆ど用いられておらず、そこからは東洋美学と欧米美学の差異も見えてくる。特にアクション映画は顕著であり、ツイ・ハークやジョン・ウーなど実写映画の監督たちも実際の撮影において「東洋の暴力的美学」を運用している。「東洋暴力的美学」とは、つまり「侠」のことであり、それは往々にして誇張的且つ超常的である。アクションがより力強く、天に昇ったかと思えば地に潜り、近くにいたかと思えば遠くに行っているようなイメージで、その力強さをうまく用いることによって、視覚的なインパクトが出せる。特に悟空の場合、このような意匠が彼をより自由で奔放にし、通常のショットでは困難なアツい戦いを実現させている。
ショットで動的要素を導入したほか、武術のモーションについても、ブルース・リー作品、ユエン・ウーピン作品、映画『マトリックス』などを参考に、悟空のイメージによりふわさしい個性的な型を作りあげた。例えば、五行山の洞穴でのアクションシーンにおいて、鎖で手を封じられた悟空のアクションをより力強く精彩に表現するために、我々はある詩的な振り付けを設計した。その動きは「トーマス旋回」を変形させたもので、動力学に適合できない部分もあるが、とても綺麗で格好よく、悟空の「サル」らしい個性を引き出している。
他の登場人物のアクションシーンでも、技術上の難題を克服し、たくさんの特殊な設計を作り上げた。例えば山神は石人間として設定した。山神を山と一体化させ、五行山そのものにし、悟空の封印がその体に貼りついているようにする。とても面白い発想だが、実際やってみると非常に難しいところが出てくる。山神は無数の硬い石で構成されているため、人間のように柔軟ではなく、石の巨体を動かす際には、全身の小石をしっかりまとめて動かす必要がある。このような効果を欧米では専門のプラグインを開発して実現できるが、我々には無理な話なので、決死の「手作業」で行うしかないのである。