プロダクションノート

大聖帰来シリーズ西遊記ストーリーの筋道と価値観

 本作品は「今までと違う西遊記」である。本来の「西遊記」とは、三蔵法師と弟子の悟空ら四人が共に九世の輪廻を経験し、信仰を求めていくストーリーだ。
 本作は「成長」の物語。なぜかというと、現代人は「西遊記」原作の経緯に対して常に疑問を抱えている。まず、孫悟空は空を飛び地に潜り、七十二般の変化術を身につけた神通力者であるにも関わらず、どうして虚弱な人間の供になって伝説の経典を取りに行ったのか。彼は何物も恐れず、天界すら騒がせ、500年間山に封印されても動じない人物であるのに、どうして単なる「緊箍呪(悟空の頭の輪を戒めのためしめる呪文)」によって服従させられたのか。また、三蔵法師の如き年若い僧侶は諸々の感情や欲望を経験したことがなく、どうして急に悟りを開き大義のために身を投げたのか。このような展開は本当にリアルと考えられるだろうか。
 実は原作では「九世の輪廻転生」という点に対して言及はあるものの、具体的に話が展開されるわけではない。そこで、我々は本作品を通じて悟空ら四人の成長の過程を再現したいと考えた。
 物語は、三蔵法師とその一行の「出会い」と、信仰を通して彼らが仲間として成長していく様を描いたものだ。本作品を見た観客は、この子供(リュウアー)が将来将来三蔵法師になると感じるに違いない。三蔵法師は転生を通してこの世の苦しみと取経の必要性を実感し、自らの信仰と歩む道を少しずつ確立していく。また、悟空もそのようなリュウアーの強さに心を動かされ、自由を信仰する気持ちがリュウアーを信仰する気持ちに変わっていく。最後はついに「取経の旅に出る」話である。物語を三つに分けて筋道の基盤を固めてこそ、西天取経の旅を描くことが可能だと思われた。

 500年間も如来に封印された悟空は、きっと闘志を失い、世の移り変わりを経験した中年男のように夢を忘れ、もはやヒーローではなくなってしまっているはずである。彼の心の中に沈む美しいものや神通力は、何らかの外因によって呼び起こされる必要がある。そのため、我々は孫悟空の闘志を奮起させるよう一人の子供を設定した。この話では、三蔵法師はまだ「リュウアー」という孤児である。小さい頃から「斉天大聖」の物語を聞いて育ち、悟空こそが彼の憧れの父親でありヒーローである。そして、このような心中に愛慕の情を抱え、ヒーローと正義を固く信じるリュウアーとの出会いによって、悟空はかつての勇気を取り戻し、利己的な信仰を捨て、他人を救うことで昔の自分を取り戻し、ついに「スーパーヒーロー」へと成長することができた。「成長」こそが本来のテーマなのである。

キャラクター作り:登場人物の前世と今世

■「悟空」キャラクター設定の当初と変遷
我々は悟空のキャラクター設定図を大量に作った。人々は二次元のものに惹かれやすい。3Dのように本編から切り取りにくいものではなく、設定図の雰囲気は壮大で専門的で、人々を心から納得させることができる。その設定図を取り出し、少々ユニークな方法で制作の経緯について述べることにしよう。

■映画全編を通して悟空には三つのキャラクターイメージが設定されている──
大閙天宮の悟空は「伝説の孫悟空」

①映画の最初、悟空のイメージは抽象的で、脛まで凛々しく、人々の思い描く孫悟空、世に類なきスーパーヒーローの姿を代表させたものになっている。人が物語を語る際、そこまで細部を描写することはないであろう。せいぜい金箍と金の鎧と身にまとう赤いマントを述べるくらいで、鎧の長さやマントの材質などの細部は省略してしまうはずである。ここでの彼のイメージは単なる抽象的な「伝説の悟空」に過ぎない。
②映画の最後、変身した大聖のイメージは映画の最初と同じタイプで、変身前後のアクセントを意識した。大聖が本当に戻ってきたということで、そのイメージは非常にリアルでかっこよく、細部までこだわりぬかれている。思い描いていた通りのスーパーヒーローの真実の姿を目の前にして、人々は心を躍らせるのである。
③メインストーリーにおいて、悟空は一人の魅力的な中年男性であり、一人の失意に沈む落ちぶれたヒーローであり、渋味と人間味にあふれているが、その設定に対する観客の反応は「こんな格好悪い悟空は見たことがない」というものだった。その実、原作の悟空は更に不格好なので、これでも妥協を重ねてこの設定に辿り着いたのだ。原作では、悟空は身長130センチのサルである。しかし精神の面では金庸の小説に登場する令狐冲や喬峰のような大侠客と変わりない。そのため、外見をサルに似せるだけであったり、ドラマ版「西遊記」のように人間に近い綺麗な妖怪の姿でありながら、動き出したら耳をつまんだり頬を掻いたりするような設定を用いるだけでは足りない感じがする。そこで、我々は大胆なアイディアを打ち出した。悟空の外見はよりサルらしいものにしながらも、性格はより人間らしく、人情味があり、仏心があり、ミステリアスな部分もあるというようにし、またその姿は我々が子供の頃に見たような年若いものではなく、大人の姿に設定した。五百年間も封印されていた悟空が十代二十代の青年の様子をしているとは想像しがたいのだが、我々がこれまでに見てきた孫悟空は殆どがそのくらいの年齢にされている。不老不死とはいえ、人の外見は必ずその人の生きざまによって変わってくるもので、世の移り変わりを経験してきた人の顔には皺が付き物である。悟空の顔は長く、ほうれい線も刻まれており、その容貌には彼が経験してきた全てが表れているのである。

■八戒のキャラクター設定の経緯
 これまでの「西遊記」作品では、八戒は基本的に性別が無く、時に女々しく、時にいやらしいスケベの設定となっているが、「大聖帰来」の八戒は純粋な心を持っており、臆病で食いしん坊であるという点では変わりがないかもしれないがスケベではなくなり、はっきりとした性別と立体的な性格を有している。
 八戒は猪であり、原作でもそのように描写されている。そのため凶悪な形相と長い毛を持つ野性的な外見になっているが、可愛らしくもある。その可愛らしいところをできるだけ保とうとした結果、長いたてがみと胸毛だけを残すことになった。
 八戒の性格は彼の生まれつきの個性と経験によって成り立っており、とても立体的である。天蓬元帥が下界に落とされたのが八戒であり、もともとの性格は臆病で軟弱、ホラを吹くのも好きで、実際何の能力も持っていないが、腐っても元神仙ということでプライドが高く、よく意地を張ったりしている。八戒は、実はほとんどの人間を代表しているのだ。本作で八戒は色々なものに変身している。例えば、一匹の猫。この猫はブリティッシュ・ショート・ヘアで、ぽっちゃりして可愛いところが八戒にぴったりだと思う。

 

■リュウアーのキャラクター作り なぜリュウアーという子供のキャラを作ったのか:
 リュウアーは実際に原作でも描かれている「九世の輪廻」を経験した子供である。揺るぎない決意のもと取経の旅をする彼は、小さい頃からある特質を備えていたに違いない。彼の人生観・世界観・価値観及びその成長は、本作で我々が最も表現したかったものである。
 キャラクター設定で少々特別な点について、小坊主の彼は妖怪たちから逃げ延びる途中憧れのヒーローに出会い、長い逃亡を続ける。そこで我々は、小坊主の丸刈りの髪がだんだんと伸びていく様を表現してみた。このような細部こそが、アニメ映画の素晴らしいところではないだろうか。また、リュウアーのキャラクターを鮮明にするため、アフレコの際にも子供らしい天真爛漫さ、勇敢さ、そして純粋な心と力を表現できるようこだわった。
 リュウアーのくどくどしたところは映画やドラマなどで描かれる三蔵法師のイメージを参照しており、これは「三蔵法師」の性格の基礎でもある。人々の思い描く三蔵法師という人物の性格はくどくどしいものであるに違いないが、くどくどしいにしても、人から嫌に思われない程度でなければならない。

■どのように「東洋のヒーロー」をつくったか?
 東洋の侠義精神に見られる暴力的美学を表すために、以下のような射影歪みをアクションシーンでも使っている。
 「大鬧天宮」の部分では、アクションをより誇張的で極端でメリハリのあるものにするため、大げさな遠近法を利用し、二次元漫画のように仕立て上げている。悟空が桃を投げるシーンなどは特にそうである。カメラ前に振りかぶってきた手は、突然巨大になったかのような感覚をもたらす。広角的に見える手は巨大すぎて3次元遠近法には適合しないが、人々のイメージ映像には合致しており、アクションをよりかっこよくヒーローらしく表現することができ、「伝説の孫悟空」という誇張的なストーリーを表すのにも向いている。このようなショットはディズニーやハリウッドなど西洋のアニメでは殆ど用いられておらず、そこからは東洋美学と欧米美学の差異も見えてくる。特にアクション映画は顕著であり、ツイ・ハークやジョン・ウーなど実写映画の監督たちも実際の撮影において「東洋の暴力的美学」を運用している。「東洋暴力的美学」とは、つまり「侠」のことであり、それは往々にして誇張的且つ超常的である。アクションがより力強く、天に昇ったかと思えば地に潜り、近くにいたかと思えば遠くに行っているようなイメージで、その力強さをうまく用いることによって、視覚的なインパクトが出せる。特に悟空の場合、このような意匠が彼をより自由で奔放にし、通常のショットでは困難なアツい戦いを実現させている。
 ショットで動的要素を導入したほか、武術のモーションについても、ブルース・リー作品、ユエン・ウーピン作品、映画『マトリックス』などを参考に、悟空のイメージによりふわさしい個性的な型を作りあげた。例えば、五行山の洞穴でのアクションシーンにおいて、鎖で手を封じられた悟空のアクションをより力強く精彩に表現するために、我々はある詩的な振り付けを設計した。その動きは「トーマス旋回」を変形させたもので、動力学に適合できない部分もあるが、とても綺麗で格好よく、悟空の「サル」らしい個性を引き出している。
 他の登場人物のアクションシーンでも、技術上の難題を克服し、たくさんの特殊な設計を作り上げた。例えば山神は石人間として設定した。山神を山と一体化させ、五行山そのものにし、悟空の封印がその体に貼りついているようにする。とても面白い発想だが、実際やってみると非常に難しいところが出てくる。山神は無数の硬い石で構成されているため、人間のように柔軟ではなく、石の巨体を動かす際には、全身の小石をしっかりまとめて動かす必要がある。このような効果を欧米では専門のプラグインを開発して実現できるが、我々には無理な話なので、決死の「手作業」で行うしかないのである。

「東洋アニメの表現体系」への模索

 我々は制作において画期的な試みを行った。それは、実際の役者に演じてもらうというものであった。しかし、これは「モーションキャプチャ」とは異なる。東洋アニメのキャラクターに直接「モーションキャプチャ」技術を利用することは難しく、特にファンタジー作品における多くのアクションシーンは、現実の人間では実現不可能なほど誇張的で、更に動力制限を超える場合もあるので、人間が出来るのはせいぜい動作の模範を示すことぐらいである。
 そうはいうものの、「実写作品の参考」は非常に役立った。特にアクションシーンでは実写作品の名作と名キャラクターから多く参考を得たほか、非アクションシーンでも一通り実写を参考にした。よくピクサー、ドリームワークスなどの欧米アニメを見る方も多いと思うが、欧米人スタッフがアニメを制作する際には、まず自ら演じてみるのが普通であるのに対し、欧米人とは性格の異なる東洋人のアニメスタッフにそこでまでのオープンさを求めることは難しい。更に重要なのは、東洋式の表現はそのようにオープンなものではないはずだということである。実際、中国のアニメ制作スタッフの多くが海外向けアニメの制作経験を持っており、技術の面では高レベルのアニメ制作ができる人材は少なくないはずであるが、彼らが作品を演出するとすぐ『カンフー・パンダ』のような「黄色い白人(外見はアジア人だが中身は白人同然の華人)」風になってしまう。例えば、キャラクターが驚いて飛び跳ねるような動きは非常にパターン化された欧米式の演出で、我々が必要としているのは中国人ならではの「驚き」なのだが、中国人の「驚き」を中国のアニメーターたちは表現できなくなっている。本作の制作中、ピーク時には二百人以上ものスタッフが参加したが、我々が満足できる水準に達しているアニメーターはわずか四人しかいなかった。課題として、熟練したアニメーション技術を有しながら、東洋人である中国人の行動パターンを把握しているアニメーターを育成していくことがとても大事だと信じている。そのため、我々は本当に演技の経験がある役者を探して一通り伸び伸びと演じてもらい、それを参考にしながら、アニメーターが自らの解釈で改めて加工していくという手法をとった。実のところ、これは効率的な方法の一つでもある。
 もう一つの難題は主役のリュウアーである。作品の主役はリュウアーだが、適当な子役が見つからなかったため、大人の役者にトライして演じてもらうほかなかった。最終アフレコまで含め、全て大人が先に見本を演じ、子供がそのイメージに則って声をあてた。全工程は相当大変ではあったものの、予期せぬ喜びも多かった。例えば、悟空とリュウアーが雑談するシーン。元の脚本はごく簡単でただリュウアーが「大聖、二郎神は本当に目が三つあるの」と聞いて悟空が怒り出すというふうになっており、絵コンテもそうなっていたが、実際に演じる段になって物足りない感じがしたため、質問を増やしてみないかとみんなから提案があり、私が小さい頃から疑問に思っていた問題「哪吒は女の子か男の子か」を追加し、私の疑問を代弁させることにした。実際の演技では、二人の役者は完全に即興で「托塔天王(毘沙門天)は塔を持っているのか?塔の中には人がいるのか?」などのセリフを入れた。全て即興である。これこそ演技の魅力で、参考演技なしのアニメ制作では実現できないものである。
 キャラクターの声の演出においても、我々は挑戦的な試みを行った。その中で一番重要なのは、キャラクターの性格と「人間味」をできるだけ再現することである。
 「西遊記之大聖帰来」のセリフは他の映画より少ないほうなので、録音係はセリフが少ないから楽にできるとは言ったが、実際にアフレコを始めてみて、それが容易ではないことが分かった。まず、リュウアーのアフレコが難しい。唐僧の声優を務める子役のお母さんはとても熱心で、アフレコ前の晩にセリフを全部暗記させたが、翌日それは失敗だとわかった。我々が一番に求めているのは本当に子供が話している感覚で、流暢すぎず、いかにも演技という感じではないものなのだ。そのような意図を伝えると、リュウアー役の子はとても賢く、望んだ通りにやってくれた。また、我々は従来プロの声優がNGだと考えてきた不明瞭な声・唾を飲む音・呼吸音などを、より温かみと人間味に溢れる音として意図的に残すことにした。
悟空のアフレコは三日間にわたって行われた。悟空には野性味が欲しいので、声の限りに叫んでもらった。そのため、声優は毎日喉が枯れるまで大声を出し続けた。また、八戒の声も普通の人間と違い、陰気でおかしげではあるが、実直で小知恵の働く性格が滲み出るものにした。女妖怪は「妖」と「人」の二つのイメージを持ち、声色や表情に大きな違いがあるが、うまく関連させなければならない…困難を極めた。

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